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102020Spring / Summer

7世紀も続いた武士の時代の終焉が迫る慶応3年。
大政奉還、王政復古を目前に京都・近江屋で坂本龍馬と共に刺客に襲われ、
2日後に若き命を散らした中岡慎太郎。
土佐城下からも遠い寒村に生まれながら、幕末という時代の激流の中心に立ち、
長州、薩摩、京都と縦横無尽に行き来して、敵対する人と人をも結びつけた。
新しい国をつくるという大志を抱きながら、
あくまで真面目で物静かだった男には、現代のビジネスマンが持つべき衿持がある。

空海(くうかい)

中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
天保9(1838)年、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村)で、父・小傳次、母・ウシの長男として生まれ、7歳から四書を学ぶ。万延元(1860)年に結婚、翌年に土佐勤王党に加盟し、さらに翌年五十人組に加わる。文久3(1863)年、土佐を脱藩し、長州・三田尻で三条実美に面会する。元治元年(1864)年、禁門の変に参戦し負傷。同年12月に西郷隆盛と面会し、慶應2年(1866)年1月に薩長同盟が成立する。慶應3年(1867)年6月、慎太郎・龍馬立ち会いのもと薩土盟約を締結し、7月に陸援隊を結成。11月15日に京都近江屋にて坂本龍馬と共に襲われ、17日に死去。 国立国会図書館ウェブサイトから転載

コミュ術1未来を見据えた村おこしの名手

中岡慎太郎は、天保9(1838)年に、土佐国安芸郡北川郷柏木村で、名字帯刀を許された大庄屋の長男として生まれた。父・小傳次は村民への思いが厚い人格者で、家督を継ぐ慎太郎も幼い頃から四書を学ぶなど特別な教育を受けていた。

10代半ばになると安芸郡内の藩校「田野学館」にも通い、剣術を指導していた武市半平太に師事。半平太が開いた剣術道場に正式に入門し、ここで坂本龍馬との出会いも果たしたとされる。

20歳の頃に庄屋見習いになった後、地震が土佐を襲い北川郷は飢饉に見舞われる。慎太郎は、中岡家の山林や田畑を抵当に米や麦を買い入れ窮民に与えた。また土佐藩から金を借り入れ、徹夜で座り込みを行って貯蔵米の官倉を開かせるなど、村の救済に奔走した。

これを教訓に、村に非常用の食物を蓄え、ユズの栽培を始めた。飢饉で塩も買えなくなったら、ユズを調味料や防腐剤にと考えたのだ。さらには農作物や樹木の優良品種を取り寄せて村民に配布し、栽培指導も行って、災害に耐えうる産業のある村づくりに取り組んでいる。

ユズは現在も高知県北川村の特産品で、古木も多いという。目の前の災いを凌ぐだけでなく、地域の未来を描き、危機管理、産業創生も図ろうとした発想と行動力を、慎太郎は維新後の国づくりで発揮するはずだった。

高知県北 川村のゆず

コミュ術2先端の情報収集で未来のビジョンを得る

黒船襲来以降の時勢を憂い、慎太郎24歳の文久元(1861)年、武市半平太が「土佐勤王党」を組織。その血盟書の17番目に慎太郎が、9番目には龍馬が署名した。翌年、土佐勤王党は「天誅」の名の下に藩参政で佐幕思想の吉田東洋を殺害し、藩論を勤王攘夷とすることに成功。前藩主で実質的に藩を牛耳る山内容堂の警護と称して、勤王攘夷の志士で「五十人組」を組織。容堂滞在中の江戸へと進むその列に慎太郎の姿もあった。

江戸に出たことは慎太郎のその後を変えた。日本各地から集まる志士と活発に親交を結ぶ中、特に影響を受けたのが長州藩の久坂玄瑞である。久坂を通して吉田松陰の思想を知り、共に松代へと佐久間象山も訪ねている。先進的な志士や知識人と交流して情報を得た慎太郎は、土佐の寒村を救おうとする大庄屋の生真面目さそのままに、迫り来る海外列強国に対抗する「新しい国のビジョン」を描き始めた。

しかし京都では、薩摩と会津が手を結び、長州と攘夷派の公家を京都から排斥する「八月十八日の変」が起こる。続いて故郷・土佐でも、表だった対立は避けて来たものの本心は佐幕派だった容堂による土佐勤王党への大弾圧が始まり、慎太郎は脱藩を決意。京より落ちる長州藩の仲間を追った。

コミュ術3地道に会合を重ね対面で人と人の縁を結ぶ

長州では、各地から脱藩した志士の中心的存在となり、京より排斥された尊王攘夷派の代表的な公家・三条実美の警備など重責を担った。元治元(1864)年に三条や毛利家の勢力挽回のため、京都御所へ突撃して敗れた「禁門の変」、米英仏蘭の列強と2回に渡り対戦した「下関戦争」で、長州は窮地に陥る。これらの出来事で、慎太郎は長州一藩での力の限界を痛感。倒幕・攘夷には薩長の連合が不可欠と捉え、両藩の有力者や志士を説得するため、長州、薩摩、京都と奔走し始める。

薩長の多くの人物と対面した慎太郎が、西郷隆盛と小倉で会談したのは元治元年の師走。思惑は違えど、互いに人柄を認め合ったことが、薩長和解の大きな一歩となったといわれる。また亀山社中結成間もない坂本龍馬、三条の随臣の土方久元など同士を引き入れ、薩長連合への流れを大きく育てた。

慶応2年(1866)の京都、龍馬立ち会いのもと薩摩藩邸で、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷らにより薩長同盟を締結。しかし、慎太郎にとってそれはあくまで通過点。すでに尊王派の三条と公武合体派の岩倉具視を結ぶ根回しに走っていたともいわれ、翌年に倒幕を視野に入れた諜報機関・陸援隊を結成する。

中岡慎太郎が記した「時勢論」

コミュ術4心を動かす手紙力
筆跡を変え機密管理

幕末の志士の中には派手な身なりやパフォーマンスを好む人物もいる。しかし慎太郎は、足を使って各地を巡り、味方とも敵とも膝をつき合わす中で、実直な人格者であること、つまり人間力により信頼を得た。敵対する薩長を同盟にまで導くには、多岐にわたる根回しを行う粘り強さも必須であった。このような資質は、大庄屋として立派な人物たる事を目指し、飢饉には民と村のために徹夜で藩と交渉を重ねた、土佐での経験が礎になったはずである。

慎太郎にはさらに、手紙という特技もあった。対面できない時には、書簡で説得を試みることもあり、特に脱藩後の土佐の仲間には、尊王攘夷運動の状勢を綴った「時勢論」など多くの論策や書状を送っている。

木戸孝允に送った「国家興亡は離同にあり、敵の強弱に関係せざるなり」など、手紙の中にいくつもの名言が残されている。また2017年に発見されて話題となった、長州藩士への手紙(京都大学附属図書館蔵・京都府京都市)では、情報管理に徹底した性格が浮き彫りにされた。脱藩したため身分を隠し、複数の偽名を使っていた慎太郎。「横山勘造」の名で書いた書状は、普段と異なり細長く繊細な筆致で、名前ごとに筆跡の使い分けもしていたとみられている。

新しい国づくりという大きな夢を抱きながら、決して浮き足立つことなく、日々地道に慎重に前進を続けた慎太郎は、陸援隊結成から4カ月を経たずして横死した。歴史ファンならずとも、維新後の姿を見たかったと思うのは当然であろう。

中岡慎太郎館

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