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082019Spring / Summer

井上馨は、幕末から維新そして明治を、武士、政治家、実業家として生き抜いた。
幕末には密航してロンドンに渡り、攘夷思想から開国論に転向。
開国を声高に論じて闇討ちされて死にかけたこともあった。
維新後は、財政制度の確立や外交を担い、政治と経済を繋いで民力養成にも貢献している。
先進性が過ぎて周囲から理解を得られぬ事があっても、対話を重ね、
国家の近代化を進めてきたその姿に、学ぶべき事は多い。

井上 馨(いのうえ かおる)

井上 馨(いのうえ かおる)
天保6年11月28日(1836年1月16日)~ 大正4年(1915年)9月1日、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。萩藩の侍・井上光亨の次男として生を受ける。嘉永4年(1851年)に兄と共に藩校・明倫館に入学。4年後に藩主・毛利敬親に従って初めて江戸に上り、万延元年(1860年)に小姓となる。文久2年(1862年)攘夷思想からイギリス公使館焼討ちに加わる。翌年、藩士4人と英国に渡り(長州五傑)、元治元年(1864年)の帰国後は開国を主張し、同年攘夷派の刺客に切られ瀕死の重傷を負う。維新後は、政治家として財政制度の確立や不平等条約の改正に取り組み、明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣が誕生した際は初代外務大臣に就任。その後も、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を務めた。実業家としては、三井物産の前身となる「先収会社」を設立している。 写真:国立国会図書館ウェブサイトより

コミュ術1「聞多」の名を授かる物知り自分の目で確認する情報通

井上馨は、長州藩祖・毛利元就以前から毛利家に仕える藩士の家に生まれた。16歳で藩校「明倫館」に入学し、藩主・毛利敬親のお供で江戸に上ると蘭学も学び始める。

当時の江戸はペリー入港以来の混沌が続き、諸藩主は攘夷と防衛に備えて競うように武芸を奨励しており、井上もその風潮に従っていたが、「このような時代こそ、国外の学問を学ぶ必要がある」と察知し蘭学に目をつけた。多彩な物事を聞く物知りぶりは藩主・毛利敬親の目にもとまり、「聞多」の名を授かったほど。時代を先取る洞察力と知識欲は井上の生涯にわたり発揮された。

ただ情報を得るだけでなく、何事も自身の目で確かめたがるのも井上だった。攘夷思想からイギリス公使館焼討ちに加わり謹慎処分となると、「列強に対抗するには海軍を学ぶべき」との思いから、英国への密航を企てる。しかし、途中で立ち寄った上海で列強諸国の船がひしめく様を目にし、また工場が建ち並び蒸気機関車が行き来するロンドンの街を歩き、国力の違いをまざまざと感じた。攘夷はとうてい不可能だと思い至れば行動は早く、ロンドンで英語を学び大学にも通って、先進技術や思想の獲得に励んでいる。

「自身の目で列強を見る」という最新にしてリアルな情報は、過去の思想を凌駕し、井上を維新へとひた走らせる原動力となった。

井上馨が学んだ、長州藩藩校 明倫館

コミュ術2大義の下、志を同じくする伊藤博文と生涯続いた友情

謹慎となったイギリス公使館の焼き討ちも、英国への密航の時も、井上の傍らには生涯の友となる伊藤博文がいた。井上30歳の時、2人は、3人の仲間(遠藤謹助・井上勝・山尾庸三)とともに横浜から英国を目指し船に乗る。後に"長州五傑"と呼ばれる5人である。

経由地・上海からロンドンへの船旅は命がけ。「海軍を学ぶ」という渡航目的を「navigation=航海術を学ぶ」と誤って伝えたため水夫扱いだったとの逸話もある。甲板の掃除をさせられ、食事は水夫と同じ。用を足すのも看板から突き出た板の上で、伊藤は下痢がひどく度々通ったが、その度に命綱を持ったのが井上だと言われている。この旅は、若き井上と伊藤の友情を育むものとなった。

開国派となって帰国した井上は、長州藩内で攘夷をすすめる旧守派との対立を深めていく。ロンドンで目にした状況を説いても、耳を貸すものは少なかった。そんな折、起こったのが「袖解橋事件」だ。

その日は藩主御前会議で、井上が開国と幕府に対する武装を理路整然と論じ、旧守派はぐうの音も出なかった。急遽井上暗殺をもくろんだ攘夷派は、夜道を帰途につく井上を袖解橋のたもとで何度も切りつけた。瀕死の井上は兄に介錯を頼んだが、母が「切るなら、われもろとも」とそれを阻止。騒ぎを聞きつけた美濃の医師・所郁太郎が、小さな畳針で50針にも及ぶ縫合手術を施し一命を取り留めた。

伊藤はすぐに井上のもとに駆けつけたが、井上は伊藤の身を案じ、「すぐにこの地を離れるように」と告げる。しかし伊藤はなかなか立ち去らなかった。

袖解橋で井上を襲ったのは児玉愛二郎という藩士であり、“身内”なだけに井上の動向も漏れていた。児玉は後に井上の引き立てを受け、宮内省図書頭にまでなった。事件から30年ほど後に児玉が謝罪すると、驚くことに井上は快く許したと言われている。

山口市袖解橋近くにある井上馨遭難の碑

コミュ術3今なら敏腕プロデューサー!?
外交に実業に、実行力を発揮

明治維新になると、井上は大蔵省で財務制度の確立に奔走。留守政府時代は、事実上の大蔵長官として実行力をふるったが、近代化を急ぐあまり強引なところがあり、何かと批判の的となる。西郷隆盛も井上に批判的な1人であった。尾去沢鉱山をめぐる不透明な動きや予算問題などの不審が持ち上がり、明治6年(1873年)に政治から身を引いた。野に下った井上は実業家となり、商社の先駆けとなる「先収会社」を設立。これが後に「三井物産」となる。

結局、政界は井上を放っておかず、盟友・伊藤博文に請われる形で復帰する。明治18年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任した第一次伊藤内閣では、初代の外務大臣となり、懸案であった不平等条約の改正に献身した。

実はあの鹿鳴館も、井上主導で実現している。在留外国大使との社交場として、また日本の国力誇示のため建造された鹿鳴館は、極端な欧化と批判も高かった。しかし治外法権撤廃を目論み「諸外国と腹を割って交流する場をつくる」という発想には、井上らしい先進性も垣間見える。

政治家としての井上の最大の特徴は、国家近代化における民力の重要性を察知し、企業を支援した事だろう。彼の後押しで世に出た企業は数多ある。特に関係の深かった三井財閥、藤田組などを通して、日本郵船、第一国立銀行、三井物産などが創業を果たした。また、三池炭鉱など炭鉱事業の必要を強く主張し、石炭の輸出により外貨を獲得することで近代化を推し進めた。

経済界との関係があまりに密接なため汚職の疑惑がついて回ったが、もしあの時代に「ビジネスプロデューサー」など相応しい肩書きがあったなら、その説得力や多くの人を巻き込む力はもっと評価されていたに違いない。井上は日本そして世界でさまざまな情報を見聞きしていたが、同時に日本の未来も見ていたのだ。

山口市洞春寺内にある井上馨の墓

◆参考文献
「世外井上公傳」井上馨候傳記編纂會/「密航留学生たちの明治維新」犬塚孝明/「首相になれなかった男たち」村瀬信一/「世に棲む日日」司馬遼太郎
◆井上馨は、志道家の養嗣子になり志道姓に変わった時期、藩主毛利敬親より与えられた聞多を通称とした時期もありますが、本文ではすべて井上馨としています。
◆協力 萩博物館

幕末の志士、井上馨のコミュニケーション術。
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