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092019Autumn / Winter

弘法大師の名でも知られる空海は、我が国の仏教を、
そして日本という国そのものの力をバージョンアップさせた人物である。
2年間唐に渡り、密教の奥義に加え、土木、薬学、芸術など、さまざまな情報と
技術を持ち帰り、社会インフラにまで昇華させた業績は計り知れない。
稀代のスーパーヒーローとして庶民からも絶大な人気を誇った空海は、
千二百年後の現代でも色あせない、ビジネスと人生のアイデアをくれる。

空海(くうかい)

空海(くうかい)
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屛風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)の豪族の佐伯家に生まれた。幼名を真魚と言う。◆15歳で上京して叔父に儒学を学び、18歳で官吏養成の最高機関、大学寮明経科に入学するも中退。独自に仏教の修行に励み始める。24歳の時に儒教・道教と仏教を比較する『三教指帰』を著した。◆延暦23年(804年)、31歳で遣唐使として唐に渡り、翌年青龍寺で恵果和尚から、胎蔵界・金剛界・伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の名を授かる。◆2年間唐で学んだ後に帰国するが、本来は20年唐に留まる予定であったため入京を許されず、筑紫国太宰府で3年過ごした後に都に戻った。◆43歳で高野山の下賜を許されて修禅の道場として開き始め、50の時に嵯峨天皇より託された東寺を根本道場とし、真言密教を世に広めた。◆満濃池の築池別当に任ぜられて改修を成功させ、庶民の学校「綜芸種智院」の開校も手掛けている。◆『秘密曼荼羅十住心論』、『秘蔵宝鑰』などを著し、承和2年(835年)に62歳で、高野山にて入滅。◆延喜21年(921年)に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を与えられる。 資料「弘法大師像(善通寺御影)」提供:香川県立ミュージアム所蔵

コミュ術1無名時代の修行の集大成1通の書簡が遣唐使を救う

宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屛風ヶ浦(香川県善通寺市)で生まれた空海は、子ども時代も才気にあふれ「神童」と呼ばれた。15歳で京に上り18歳で士官の養成機関である大学に入学。しかしそこでの学問に飽き足らず、仏典を読みあさり山林修行に励むようになり、ついには大学からドロップアウトして独自に仏教を極めようとした。

この頃ひとりの僧侶と出会い、秘法「虚空蔵菩薩求聞持法」を授かって超人的な理解力と記憶力を手に入れたと言われるが、都の仏教界では名を知られる事のない一介の修行僧であった。しかし求道心溢れる未完の大器は、エリートコースからの離脱も無名である事も、気にもしなかったに違いない。

仏教を極めるには唐で密教に触れる事が不可欠だと感じた空海は、延暦22年(803年)、31歳のときに入唐する。唐への航海は困難を極め、予定よりはるか南の福州長渓県赤岸鎮に漂着。国書がなかったために海賊か密輸船かと疑われ拘束されたが、窮地を救ったのが空海である。

航海で命を落とす事も覚悟で、それでも夢に見た唐を目指さずにいられなかった心情を、教養ある文章と品格ある文字でしたためると、「このような名文を書けるなら遣唐使に相違ない」と認められ、ようやく目的の長安へ向かう事ができた。これは、アウトロー的に修行していた日本でも確かな教養を身につけていた事の証である。

空海の書の中でも名文と評されるこの書簡がなければ、唐で学べず、日本の信仰や文化も今とは違っていたかもしれない。 空海は、経典はもちろん、詩や書について学び、さらに後に発揮するマルチな才能の土壌となる、工芸、建築・土木、医薬など幅広い分野の知見を蓄えた。そしてついには、密教の本流である青龍寺の恵果和尚を訪ねる。恵果は、空海を一目見るなりその素養を見抜き、「あなたの来訪を待ち焦がれていた」と告げたといわれる。

密教の奥義伝授は直ぐに始まり、真摯に学んだ空海はわずか2、3カ月で、密教の指導者「伝法阿闍梨位」となり、「この世を遍く照らし、金剛のように不滅な者」を表す「遍照金剛」の法号を与えられる。異国から来た修行僧は、驚くべきスピードで密教の正統な後継者となったのだ。

この栄誉の灌頂に際し、青龍寺の他、密教ゆかりの寺から500人を招いて祝宴を開き、感謝を伝えた。

満濃池

コミュ術2満濃池の改修で人も技術もマネジメント

唐から帰国し、3年の太宰府滞在の後に、密教関係の多くの宝物を土産に京に戻った空海。文芸の教養がある嵯峨天皇と親交を深め、終生の協力者を得る事となる。宗教家としても次第に力を認められ、東寺と高野山の金剛峯寺を拠点として真言宗を興し世に広めていく。さらに、救世活動として多くの社会福祉事業を手掛けた事でも知られている。

東寺近くに開いた「綜芸種智院」は、貴族や郡司の師弟に限定されていた教育の機会を庶民にも与えた画期的な学校。仏教だけでなく、儒教、道教などさまざまな宗教・思想を総合的に学ばせたというから、度量が広い。

一方、唐から持ち帰った最新の技術で、土木事業も数多く手掛けた。代表的なのものが満濃池の修築である。

大宝年間(701~704年)に築かれた満濃池は弘仁9年(818年)に決壊し、復旧を目指していたが、人手も技術も追いつかない。そこで人々は、この地で生まれた唐帰りの空海に、築池別当としての帰郷を、国司を通して懇願した。真言密教確立に奔走していた空海だが、「百姓が父母の如く恋い慕う」と書かれた嘆願書が幾度も届けられ、弘仁12年(821年)に帰郷の運びとなった。

ひとたび空海が故郷に戻ると、四国中の人々が「履きものを履く間も惜しんで」駆けつけ、人手不足はすぐに解消。築池の手際も見事であった。水圧に強いアーチ式ダムを築き、池から溢れる水を調節する「余水吐き」を設置。現代にも通じる技術を用い、わずか3カ月ほどで周囲8㌖超、面積81㌶もの巨大な池が完成をみたのである。

空海ならではの圧倒的なマネジメント力で造成された満濃池は、現在でも日本一大きい灌漑用ため池である

四国遍路

コミュ術3四国をひとつにする遍路
各地に残るエピソード

四国最大の文化遺産ともいえる四国霊場八十八ヶ所遍路。空海の修行の場をたどる巡礼は、人生の豊かさの意味を問われる現代、再び耳目を集めている。ここでは遍路道とその周辺の空海ゆかりの地を紹介しよう。

高知県室戸市の「御蔵洞」は、19歳の頃に修行をした洞窟。ここから見える空と海だけの景色から「空海」の名を想起したとされ、ここに座して悟りを開いたとも、修行中に口の中に星が飛び込んだともいわれている。

愛媛県大洲市の番外札所・永徳寺の「十夜ヶ橋」は、空海が野宿した場所で、今も野宿修行ができる。大寒の日にこの橋の下で眠ろうとした空海が、寒さと空腹で「夜明けまでが十夜の長さに感じられた」事からこの名が付いた。橋の下に空海の野宿像が祀られているため、遍路たちは杖をつかずに渡る習わしがある。

水不足に苦しむ村人のために、一夜のうちに杖で掘ったとされる井戸があるのは徳島県徳島市の17番札所・井戸寺。この他にも、空海が杖の先で地面を突くと清水が湧きだしたと伝わる「弘法水」の伝説は、全国に千以上もあるといわれる。

承和2年(835年)に逝去した空海。だが高野山の金剛峯寺奥の院の霊廟において、現在も生きて禅定を続けているとされる。もし霊廟を訪ねられるなら、大きな転換期である現代を生きる術について教えを請いたい。

井戸寺

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